書いてるだけで丸裸

とはいえパブリックであることは忘れずに生きたい

飛び石を渡るように

あのころ私も若かった

写真は、iPhoneに残っている一番古い自分の写真だ。2013年12月7日、渋谷区千駄ヶ谷。皆がドコモタワーを眺める新宿駅西口の大きな跨線橋で、当時よく遊んでもらっていた上司に撮ってもらった。干支に絡めて何かしようとしていたような記憶がある。

このあと数年、年賀状用の写真を撮ろうとしていたが、元来の雑な性格によりついぞ年賀状を出すことはなく、良さそうな被り物も見つからなくなりやめてしまったのだった。馬の被り物も、数回の引っ越しを経て今はもうない。

 

干支が大体一回りする年数が経ち、当時はっちゃけた反動か最近は「いかに日々を心地よく過ごすか」とペースを作るのに腐心している。腐心していた。

日々をペース良く回すのは大変だ。その大変さに向き合うために、いろんなHow Toも出ているし、そうして教わって試してみたことがいい感じにはまって回りだすと気持ちがいい。だから多分これからもささやかな日課を足したり減らしたりして、七転八倒するとは思う。

 

ただ、それは歩きやすい道を造り通りやすい橋をかけているだけのことで、寄り道や川辺に憩うような楽しみではない。

 

楽しみや趣味と呼ばれるものについては、持っていた。しかしいつしかそれを捨て去り、なんとなく虚しさや焦燥感を感じるようなことに時間を割くようになっていた。「趣味」なのに楽しくない、しかもそれに気づかないという状態が長く続いた。

これではいけない、と思い直したのが数ヶ月前、手始めに朝の読書を始めたのは年が明けてから、そして好きだった、楽しかったことを、たくさん思い出したのはここ数日のこと。

 

読むこと、書くこと、そして思考を巡らせること。メロディーをなぞって歌うこと。読み上げること。日なたを歩くこと、知らない道に行ってみること。ちょっとふざけてみること。笑うこと。すっかり忘れていたわくわくを、これらの言葉に感じるようになった。

 

かつて自分が走ったあとに落としてしまっていたものを拾い上げる落ち穂拾いを、これから少しずつしていこうと思う。とはいえ、あまり深刻にはならないように。「穏やかに暮らす人」という被り物を気持ちよく脱ぎ捨て、川の飛び石を渡るように、懐かしく新しいものに無邪気に飛び乗っていきたい。